混声若草

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マドリガルを唄う

スプリングコンサート(4月6日)では、マドリガル{Amor vittorioso)を唄う予定です。ろっこ先生によると、マドリガルっていうのはサロンなどで数人が集まって、即興的に歌ったものなんだとか。もちろんアカペラで、初見で。歌詞も、その場の雰囲気だったり、その当時の流行を取り入れたり、韻を踏んで言葉遊びをしたり、って言う感じだったようです。(サロンで内々に、仲間同士での歌ですから、かなりきわどいものもあったようですよ。こんな後世まで歌い継がれるなんて、思ってもいなかったでしょうからね)それにしても、昔の人達って、なんて高尚なお遊びをしていたんでしょう!感心しますよねー。。で、そもそも合唱のように大人数で唄うのは、マドリガルの本来の姿ではないってことで、若草の半分ずつで唄う、っていう試みをやっているところです。前後に分かれるとか、一人置きに歌うとか。なにせ仲良しの若草の事。お隣さんにべったりくっついて、互いに頼り切っているのが実情。半分に分かれると、なんとわが身の頼りないこと!それに、同じ合唱団なのに、半分になると、まったく雰囲気が変わるのも新鮮な驚きです。いろんな人が集まってはじめて、若草を作っているってことですね。次回は絵里先生のヴォイトレです。このマドリガルを見て頂きますよ。さてさて、絵里先生はどんな風にマドリガルを料理してくださるのか、楽しみです。見学もOKですよ。ぜひどうぞ。

お告げ・・・

実は私、臨死体験があるんです(-_-;)その時、ろっこ先生がなんと「あの世」まで迎えに来てくれて、なんとかこの世に戻ってきたんですけど。(今だに、ピンクのブラウスに白い帽子を被って迎えに来てくれたろっこさんの姿が鮮やかに蘇りますよ)常日頃、パワフルだなあと思っているろっこ先生ですが、あの世まで来てくれるなんて、すごいパワーです(←この経緯はいずれ、別の機会に)で、それ以来、時折いろんな人が夢枕に立ち、お告げをしてくれるんですが・・・先日、昨年暮れに亡くなった「混声合唱団萩」の指導して下さっていた作曲家の岡崎光治先生が夢枕に立ちました。混声合唱団萩には、若草メンバーも沢山加わっています。(夢の中で)先生はいきなり「アルト!音がずれている!」と、大声で恫喝され、心臓が止まるくらいびっくり(;゚Д゚)でもその後、「アルトは、一本の紐のように歌うんだよ」と言うんです。「糸」ではなく「紐」。これってどういう意味なんだろう、とずっと考えていましたが、昨日の練習で、ろっこ先生がヒントをくれました。アルトに、八分音符が続く箇所があるんですが、「パールのネックレスをイメージして。パールのように音を一個一個歌うんじゃなく、繫いでいる紐のようにまっすぐ音を繫いで!」と言うじゃありませんか。多分私なりの解釈では、新体操のリボンのように、しなやかに滑らかに、音が飛んでも、紐は繋がったままで、っていうことじゃないのかしら。それを実行するのは、難しいことだけどね。苦戦するアルトに、岡崎先生の最後のご指導だったのかな、と胸に刻んでいる所です。

歌は世につれ

若草では結成から14年の間に、実にたくさんの歌を唄ってきました。まさに「古今東西」の名曲揃い。最近の歌は、言葉数も多かったり、字余り的で、リズムも早くて、中高年合唱団には歌いにくいのが多いんですけど。これも忙しい世の中を反映しているのかしら・・・。歌って、その時代時代の世相を反映しているんだな~ってつくづく思います。時代を背景として、夥しい言葉の中からこれぞ!っていう一言を選び出し、紡ぎあげるんですから、作詞家ってすごい仕事だと感心しますよね。若草ではもちろん、外国の昔昔の歌を唄うことも多いんですよ。時代のフルイにかけられた、言ってみれば研ぎ澄まされた珠玉の歌たちです。「単に言葉遊びの戯れ歌よ。深く考えずに楽しめばいいわよ」っていう方もいますけど、何百年も歌い継がれてきたからには、それなりの理由があるはず。作者がその言葉を選んだ訳とか、どんな歴史の中で作られたのかとか・・・。辛い時代なのに、なんでこんな明るい歌が生まれたんだろう、とか。それらを推し量って、歌うのが我々の仕事。若草はもちろん素人集団ではありますよ。でも、最低限、作られた時代に思いを馳せ、自分の想像を働かせて自分なりのメッセージを込めて歌おうとするのが、その歌に対する礼儀っちゅうもんじゃないかしら。しかもその努力を見せず、かつ「深く考えずに、楽しんで歌っているかのように」軽やかに歌う、っていうのがウデとワザの見せどころで・・・。ずっと以前、まだ若草が出来立てで、初めてコンサートをやったときのこと。今考えると、冷や汗もんでしたけど。「百万本の薔薇」を歌った時のこと。なんと一番前のお客様が、一生懸命涙を拭いているじゃありませんか!!『え?!こんな下手な演奏で?!』と、内心思ったんですが、聴いてくださる方にとって、何が心の琴線に触れるのか分からないものだとつくづく思ったものです。歌う側が自分で「下手」なんて言うほど、売り物にならない演奏を不用意にするべきじゃないと心に戒めたものです。歌うってことは、ある意味、メッセンジャーになるってことじゃないかしら。歌の心や作った人々の思い、歌い継いできた人たちの魂を、今の時代に伝える役割を担うってこと。その歌の持つ意味や意義を考えつつ唄うのも、その曲を選択した我々の義務と責任なんじゃないのかしら。歌は他の音楽のジャンルと違って、「言葉」が付いています。で、言葉にはもちろん意味があります。そして言葉も音も、発したその人の波動を表すもの。合唱と言う形で、大勢で発する言葉と音は大きなエネルギーとパワーを持って伝わっていきます。(良くも悪くもね)我々歌い手としては、その覚悟を持って、1曲1曲を大切に歌っていかなければ、なんてことを、つらつら思うこの頃です。