混声若草

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ボイトレで思いました・・・

昨日は高橋絵里先生による久々のボイトレでした。せっかくの機会でしたが、このところの激しい寒暖差のためか、体調不良で欠席者も多く、残念。でもその分、少ない人数でじっくり見ていただけたかしら。(優秀なアルトは全員の出席でしたよ←ニッ)限られた時間の中で、大半を費やしたのが「力を抜いて声を出す」って練習。ハミングでもなく、お風呂の中で鼻歌を歌っているような、まったくなんにも意識せずに、フンフンフンと声を出しているような・・・これが何と難しい。多分、普段なら何気なくやっていることなのに、こういう「公式の場」(?)に来ると、やっぱりどこか作り声っていうか、無意識のうちに、ちゃんと声を出さねばモードになってしまうようです。それで思い出しましたけれども、ずっと習っている太極拳で、一番難しいのは「ファンソン」と言って、力を抜くこと。それもただだらしない、ヘナヘナした緩みではなく、軸の極まった緩み、っていうか、体の中の全部が繋がって緩むこと・・・かな、とつらつら思うのですが。絵里先生の力を抜いて歌う、というのと何か共通している気がします。ここを体得できれば、歌も太極拳も格段にレベルアップするんだろうな・・・とは思うものの・・・どっちも遥か遠い道のりです(~_~メ)

アルトパート練習する

暮れの毎回の「アルト~!!!」の叱責に堪えかねて・・・お正月明け早々にアルトはパート練習いたしました(*´Д`)今回はピアニストの公美先生は頼らずに自力で、お互いの耳だけを頼りに、何とかみんなの声をまとめてみようと試行錯誤。ただ、みんなの予定が合わず、おまけにドタキャンもあって、集まったのは9人中5人だけ。時期的にも無理があったのは否めませんが、これでパートの声を揃えるのは不可能ですけど、とりあえずめげずに。素人ながらの分析ですけれども、声が揃わないって、そもそもの原点ですが、まず気が合ってない。(仲が悪いって意味じゃないですよ)四六時中一緒にいる学生の部活とは違って、週に1度2時間だけのお付き合いです。それぞれ別の日常を過ごしていて、さあ声を揃えて!と言っても土台無理。それに、考え方に温度差があります。もちろんコンクールなどを目指しているわけでもないですから、週に1度のお楽しみ程度に参加している人と厳しく音楽を追求したい人とではおのずと参加の姿勢に差が出てきます。中にはゆる~く「ハーモニーに入っていればいいのよ。ミでもソでも」なんて大らかな人もいます。確かに、正確にミかソを出しているなら、(百歩譲っても)許容範囲かもしれないけれども、それがズレていれば、不協和音の何物でもないって話(~_~メ)今回は5人でとりあえずミーテイングから始めてみました。同じパート内でも改めて話をする機会って、案外無いものです。声が揃わない原因って何だと思う?ってことで。口々に「練習不足だから、自信もって声が出せない」との答えが。(ここは気が合ってるねー)なら練習しようぜ。でもその前に、「気」を合わせてみよう。自分を極力ニュートラルにして、まわりの「気」を受け入れやすくしてみようよ。(ここは私の得意分野)ろっこ先生、今度のアルト揃っていないとしたら、この5人のせいじゃありませんことよ。

開口発声をするたびに

よその合唱団はわかりませんが、ろっこ組合唱団では、練習の始めに必ず開口発声っていうのをやります。あいうえお いうえおあ うえおあい・・・を順番に最後のぱぴぷぺぽまで、各々2回ずつ言うわけです。まったく知らない人が聞くと、大抵「おー!!すごい!!」と大うけするので、ときたま宴会芸に利用させて貰っていますけれども(*´Д`)50の音にはそれぞれに思念が宿っていると言われます。まさに言霊です。開口発声の中に、今は使われていない文字 ヰ と ヱ も含まれています。つまり「や ヰ ゆ ヱ よ」もきっちり言うわけで。ヰとヱの音の意味を意識して言っている団員は、おそらく誰一人としていないでしょう。ヰの音には「存在」の意味があり、ヱの音には「届く」という意味があります。ものの本によると、ヰとヱで「生命の核に自分がいて、本当の自分に届く」ということになるのだとか。ヰもヱも使われなくなった現代は、もしかしたら自分の核を無くし、本当の自分を見失った時代ということなのかしら。毎週開口発声をし、律儀に「やヰゆヱよ」と唱えているわけですから、せめて我々だけでもしっかりと揺るぎない自分の核を持ち、内なる自分に届けと歌をうたいたい・・・この頃、そんな風に感じています。